花の里日記 2006.2.18 №72
土曜日 小屋(コテージ)の事
この数日、雨続きで空がどんより曇っていたが今日は陽が射して暖かい。
ようやく春の兆しが見えてきた。
先ほどまで前から予約があった駐車場の賃貸契約をしていた。
だんだんと不便な郊外から都会に人がUターンしてくる。
若い人から老人までが都会の便利さに馴れて、手間のかかる郊外の暮らしを嫌い出してきた傾向がある。
最近ホームワークなる雑誌なのか写真集なのか不明だが家に関する本を読んだ。
それには世界中の古い民家や小屋、農家などの写真や構造が出ている。
その中で生きてきた人間の経過まで書いてあった。
もう日本でも民家や古い街並は観光施設となってしまって居住者はほとんどいない。
時々私は瀬戸内海の島に行く事があるが、ここも昭和の時代のままで凍結されているようで、住む人もまばらである。
そこには昭和の古い建物群が静まりかえって残っている。
思えばそこに暮らした人たちは世代代わりしてあらかた都会に出て行ってしまった。
その写真集には著者の考えが強く反映されており、土・泥・草・木・竹・石・レンガ・瓦・コンクリートなど主に工業製品でない自然の材料で建てた手作りのコテージが載っている。
中には工業製品である古いキャンピングカーなども入っているが。
著者の彼はベトナム戦争反対のフラワーチルドレンの生き残りかも知れないと思った。
彼が人間の生き方をずっと追求している事についてなにか共感がある。
思えば私は今まで工業製品を主体とした家屋を建てる事を仕事としてきた。
自然の材料で作ったコテージなどは都会の生活にはまるで不適合だから。
私たちは鉄とコンクリートとガラスとアスフアルトで出来た都会に住んでいる。
でもそのコテージ(小屋)は都会の生活とは別の世界をかいま見せてくれるものかも知れない。
海があり山があり森があり畑があり川が流れている。
虫が飛び、鳥が鳴く。
そこは泥と土でまわりには石が転がっている。
人間は10畳位の部屋があれば充分生活出来る。
風呂やトイレやキッチンは別に必要だがそんなに大きな家は必要ない。
コテージになぜか気持ちがひきつけられる事は、石油を大量消費している現在の生活への警鐘だろうか。
はたまた温暖化で地球が激変しそうな未来世界への恐怖感からであろうか?
祖先が生きてきた原始生活への郷愁を覚えるのである。
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